日大の悪質タックル問題の一連の流れを見ましてね、まぁ以前からぼくはそうなんですが、「スポーツ」というもの自体が、あまり好きではないわけです。

いや、もちろん分かりますよ。

 

「今回の件は【監督・コーチが】【社会が】【学生が】悪いのであって、アメフトが悪いわけじゃない」

「殺人犯が包丁を使ったからと言って包丁が悪いわけじゃない」

 

まぁ、そういう意見が至極まっとうと言えるでしょう。

なんていうの「道具」のせいにするな、みたいなね。

 

うん、それは分かるんですよ。

 

でもそれをあえてわかった上で、ぼくは「もういっそスポーツなどなくしてしまえ」って思うわけです。

 

「スポーツ」と日本の「道」

そもそも「スポーツ」っていう考え方って日本になかったと思うわけです。

武道だったら「生き死に」を賭けてるわけだし、「蹴鞠(けまり)」だったら娯楽だし、相撲だったら神事だし。

ほんで、武道っていうのは、ほぼ「万能」なんですよ。

 

剣術と柔術、槍術で大きく身体操作に違いはありません。

むしろ共通項のほうが多い。

 

それは武道が「普遍的な身体操作」を目指すからですね。

なぜなら「生き死に」が懸かっているからです。

 

そして、その動きは「茶の湯」とか「華道」とかにまで通ずる。

で、その「道(どう」」っていうのは何かというと、アヤシク言うと

「神とつながる道」であり、もうすこし平易に言えば

 

「じぶんと繋がること」

「じぶんに戻ること」

「自然体に生きること」

 

などと表現することができるわけです。(もちろんこれがハラ生きですヨ)

 

スポーツに対する違和感

 

けれどもスポーツというのは、そもそもが「道」から外れたものなのです。

その違和感というのは、対象が「大いなるもの」ではなくて「目の前の人」だからですね。

 

そこには「じぶんに戻る」というよりは「勝つ」という価値観がある。

 

つまりスポーツは、「誰かと比べて勝ちたい」というエゴの欲求をすごく刺激するわけです。

 

そうなると、本来レクリエーションや娯楽である「スポーツ」がシリアスになってしまう。

 

「sports」の語源を調べてみると、大元は古代フランス語の「desporter」という単語で、意味は「気晴らしをする」だそうです。

 

それが中期英語で「disport」となり「楽しみ」「遊び」という意味になったと。

 

けれども現代では、そこから随分と離れ、たとえば真剣にスポーツをやっていないときに「遊びじゃないんだぞ」みたいな言い方をしたりする。

 

「スポーツは真剣にするもの」みたいな価値観に洗脳されている人って、かなりいるんじゃないかな。

 

今回の悪質タックル事件も、みんなが深刻にスポーツをやった弊害だとぼくは思う。

 

だから「人を怪我させてでも試合に出たい」という強烈なエゴが生まれた。

もうそれは洗脳レベルなのです。

「試合に出たい」

「試合に出なきゃ」

「試合に出なかったら死ぬも同然。もう終わりだ・・・」と。

 

 

「えー、そんなアンフェアなことするんだったら辞めます~」って宮川選手が言えたなら、こういう事件は起きなかったわけです。

 

いちおう言っとくと、ぼくは宮川選手は、けして悪人ではないと感じています。

ただ、「たかが試合」でシリアスすぎたよね、と感じた。

 

スポーツを一生懸命やってこられた方からすれば「たかが試合」なんて言われたら心外でしょう。

 

けれども、スポーツをしない人の中にはそういう考えを持つ人もいるということです。

 

シリアスな国、日本

 

世界有数の自殺大国と言われる日本。

 

ちょっと話は変わりますがね、この「自殺」というのもシリアスすぎることの弊害だと思うわけです。

 

だから「たかが仕事」「たかが受験」「たかが恋愛」で自殺してしまう。

 

それは月並みな言い方だけれども、視野が狭くなっているのです。

 

これはどういうことかというと、カラダがおかしくなっているのです。

 

具体的に言えば「ハラ」がない。

からだの内側の筋肉が動いていない。

だから、全体的に日本の精神がおかしくなっている。

具体的にいうと、

この図でいう「欠乏欲求」で動く人が多いということです。

 

もちろん前述の宮川選手も、このワナにハマった。

「真面目で素直でいい子」だったからこそ、洗脳された。

 

不マジメで根性なしで、サボり野郎だったら、今回の事件は起きなかった。

りゅーちぇるに「潰してこい」って言ったら「えー、やだー、かわいそー」って言いそうでしょう。

 

「マジメな体育会系の好青年」だったからこそ、事件が起きたわけです。

 

そして「うつ」で自殺するのも「マジメないい人」ですよね。

誰かの言うことを守って、ルールを守って、社会的にじぶんを殺して、最終的には肉体的にもじぶんを殺してしまう。

 

それはね「自己超越の欲求」「ハラの欲求」「本来の自分の欲求」じゃないところで行動しているってことなんです。

 

そうすると、どんどんハラがしぼんでしまう。

人間のカラダにとっていちばん大切な「内側からの圧」がなくなってしまう。

この状態を「腑抜け」と言います。

で、こうなると本来の”sports”つまり「たのしさ」と「あそび」がなくなる。

シリアスになる。

視野・視界が狭くなる。

じぶんの内側からくる欲求ではなく、外側からの命令に従うようになる。

 

ということが起こるわけです。(会社人間と同じでしょ?)

 

だから、「悪質タックル事件」というのは、ある意味、日本の縮図でもあるのです。

 

一体なぜ、日本はこんなふうになってしまったのでしょうか?

 

腰抜けにされた日本~GHQと3S政策~

 

多くの方が知っていると思うので、ここでは詳細は省きますが、いわゆる3S政策ですね。

「sports(スポーツ)」

「sex(性産業)」

「screen(映画)」

によって日本の精神性を破壊しようとするGHQの施策です。

日本人の「ハラ」をおそれたアメリカは、戦後に上記の3S政策によって、日本人を「フヌケ化」しようとした。

 

それは見事に大成功したわけです。

ここで、「語源由来辞典」を見てみますと、空恐ろしいことが書いてあります。

 

日本では大正末頃から、この言葉は一般化されたが、当時は野球やテニスなど欧米から入ったスポーツのみをさしていた。

柔道や空手などの武道を含み、「スポーツ」と呼ばれたのは戦後のことである。

 

これは、意図的に「武道」がスポーツ化されたということです。

 

つまり「武道」の持つ精神性、「神とつながる、本来のじぶんに還る」という価値観が、しれっと「誰かに勝つ」という価値観にすり替えられてしまった。

 

だからある意味、スポーツ界に不祥事が絶えないのは当たり前なわけです。

 

「誰かに勝つ」ということをシリアスにやろうという時点で、「道」つまり「本来的な自然な幸せなあり方」から外れているのです。

 

 からだを壊すのに「体育」という名称

 

本来、日本人が持っていた「ハラ的価値観」を補い、またフヌケを強化するものに「筋トレ」があります。

ここでいう「筋トレ」とは、無理やり筋肉を増やす・太くする、つらいのにがんばって鍛えるという行為をさします。

 

この外側の筋肉をつけて「強くなる」「立派になる」「成長する」

そういう価値観が、そもそも「フヌケの価値観」なのです。

 

「ハラの見方」というのは「ハラの欲求」「自己超越の欲求」に従い、「たのしく」「遊んで」いるうちに、結果的に「鍛えられる」というものです。

 

しかし学校では、そういう教育はありません。

「イヤでも」「我慢して」「みなと同じように」かつ「隣の子に負けないように」ということが求められる。(ついでにいえば、それらを「仲良く」行えと。)

 

そして「筋力をつけましょう」「筋肉を増やしましょう」と。

 

それから「体育座り」で、さらにフヌケになりましょうと。

まぁ徹底的にやられているわけです。

もうむしろ見事といっていいほどやられています。

 

 

 スポーツをレクリエーションに

 

だからぼくの主張というのは「スポーツを本来のsportsに戻そう」ということなのです。

 

スポーツは気楽に、気晴らしでやるのがちょうどよいのです。

「あららー勝ったわー、おほほほほーーー」

「ありゃりゃー負けたわー、あははははははーーー」

 

というか本来そういうものなのです。

 

そこで自己否定が強すぎる人、エゴが強すぎる人が出てくると

「あいつには負けない!」

「絶対買ってやる」

「おれのがうまいのに!」

みたいにシリアスになってくる。

 

そこが、おかしくなりはじめるポイントなんです。

 

そんなにシリアスにならず「娯楽」として楽しむぶんにはスポーツもよいかと思うのです。

 

 スポーツと整体

 

ぼくは整体をやっているときに、たくさんの高齢者の身体を観せてもらいましたが、ぶっちゃけスポーツしている人の身体って、あんまりよくないのです。

 

なんかゴツゴツしていて違和感がある。

それはそうですね。

多くのスポーツでは、「そのスポーツだけにしか使えない身体を作る」からです。

 

それは「普遍的な効率のよい使い方」ではないことが多い。

先述したとおり「道」と名の付くものの身体操作には、共通項がかなり多い。

 

けれどもスポーツは「スポーツごと」なのです。

だから卓球とバドミントンとテニスでは、だいぶ違う。

つまり「それにしか使えない不自然な動き」が多いということです。

 

だから長年やっていると、カラダがおかしくなるんだと考えています。

 

逆に、70代になってもすごくしなやかな身体を保っていたのは

「精神が素直で、あまり運動などしてない人」

「ヨガや太極拳を、ちゃんとしたところで習っている人」

でしたね。

 

そういう人は回復がすごく早かった。

 

 ハラと合気道

 

その意味では「試合」がない武道である合気道は、「勝つ」という気持ちになりにくいので精神性が保たれやすいです。

 

ただ、けっきょく「スポーツ的な価値観」に洗脳されている人が多いので、合気道なのに

「誰かに勝つか負けるかとかで頑張る」

「上達するために筋肉を増やそうとする」

「関節技を極めて(極められて)悦に入る」

「ただドタバタ動いて汗を流すスポーツと思っている」

なんてのは多いですけどね。(あと自分は強いと勘違いする人…)

それでも「ほんらいの自分に還るツール」としては、なかなかの優れものなんですね。

 

ハラ生き道の「からだがゆるむ合気道」というのは、そんな合気道から「武道っぽさ」「スポーツっぽさ」を抜くことで、本来の効果が得られやすいように組み立ててあるのです。

 

・カッコつけない

・笑っておこなう

・触れるよろこび、触れられる喜びを味わう

 

これが「神とつながり」「じぶんとつながる」コツだと思っていて、それを知らぬ間に実践できちゃうのが「からだがゆるむ合気道」なのです。

 

 

 まとめ

 

というわけで、今回も本気で書いてみました。

ずいぶん長くなったので、まとめます。

 

スポーツは「誰かに勝つ」という価値観になりがち

スポーツに固執するのは「欠乏欲求(エゴ)」で動いているから

マジメな人ほど、そのワナにハマりやすい

ハラがないとエゴに支配されるが、それは日本ぜんたいの傾向

その傾向は計画され、意図的に作られたものだった!

だから今こそハラを取り戻し、自分に還ろう!

ちなみに、スポーツを長く続けている人は、あまり身体がよくなかったね

逆に東洋系のことをきちんとやっている人は心身ともに素直な人が多かった

その意味では「合気道」は、ハラ作りにピッタリだよ

合気道はここで体験できるよ

以上すべて、おぜっきーの私論だよ

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