最近、いろいろな刺激が種となり、それが先日、ぱっと花開いた。
それが「世界はともだち」仮説だ。
今回、気づいたのは自分の中に根深く残る「上下関係」「優劣」の考え方だった。
もちろん、アタマでは「ものごとに優劣などない」というふうに知っていて、「宇宙的には価値に差などない」なんてことも思ったり言ったりしていた。
けれども、からだのレベルでは、まだまだ「上下関係」の意識が残っていたのだ。
上下関係。
それは「目上の人」には失礼のないようにする考え方。
また、「目上の人」には素直である考え方。
それはつまり「目下の人」には、「礼儀」を強要する考え方。
「目下の人」には、素直であれとさとすあり方。
そういう考え方はもう古いとアタマで考えながら、いちばん「上下関係」に縛られていたのは、ぼくだったのだ。
「上下関係」が根深くインプットされているから、何かあるとからだが反応する。
「目上」の言うことには素直に。
とくに僕の場合はどうも「叱られないように」という価値観が、強かったようだ。
それで、行動の選択肢を「叱られないように」の中から選ぶので、どうしても「ハラの声」とすこしズレが生じてしまう。
それが「疲れ」の原因になったりする。
また「目下」の人が、自分にたいして素直になってくれないとき、イライラを感じたりする。
そこで今回、採用してみたのが「世界はともだち」仮説だ。
「目上/目下」なんてない。
上下も優劣もない。
というふうに仮定したうえで生活してみる。
そうするとどうなるだろうか、という実験だ。
そしたら。
結果的には、からだのゆるみが加速し、ストレスが激減した。
変化その1は、レジの人やホテルの人に自然に笑顔が出せるようになった。
基本的に、ぼくは笑顔を作るのが苦手。
けど「成功法則本」で読んだり、そーゆー知り合いを見たりして、「笑顔にならなきゃなぁ」と思っていたところがあった。
それが「世界はともだち仮説」を採用しただけで、お店の人が愛しくなり、自然と「ありがとう」という言葉が出てくるのだ。
しかし、それも考えてみれば当然で、「ともだち」が、モノを売ってくれたら「ありがとう」と自然に言ってしまう。
それと同じ現象が、起きてくる。
変化その2 店員の態度をジャッジしなくなった
ぼくは、もともとサービス業の出身のせいか、「ゆるいサービス」に厳しいところがあった。
ピシッとした接客をされないと「大切にされていない」と感じてイラっとしてしまっていたのだ。
そこには「お金もらってるんだから、ちゃんと働けよ」という意識があったと思う。
そして「お金をもらう以上きちんとする」という条件付けというか、思い込みがあった。
だから、要らぬところで腹を立てていた。
それが今日、ホテルのチェックアウトのときにフロントの人が、奥で談笑していたのだが、
「今日も愉しそうだね」と思うくらいで何も感じなかったのだ。
以前だったら、「ああ、このホテルはサービスが悪い。客のいる前で談笑するなんて」と怒っていたと思う。
それが怒らないどころか「あなたが愉しそうで嬉しいよ」くらいに感じたのだ。
これには自分でもびっくり。
けれども、「世界はともだち」なんだから、当たり前と言えば当たり前で、「ともだち」が幸せそうにしていれば、幸せになる。
「ともだち」がやっているお店で、ともだち同士が談笑している。
なんの問題もない。
あ!あと、そうそう。
変化その3 新幹線のなかでダベってるおばちゃん軍団にイラつかない。
以前なら「うっせーばばあ!」とか思っていたかもしれないところが、今度は「おかあさん」だと思ってみると、
「おかあさんが幸せそうにおしゃべりしていて愉しい」
という感じになったのだ。
そして、おっさんは「おとうさん」、じいさんは「おじいちゃん」というふうに見ていくと、なんかみんなを大切にしたくなる。
そうして考えてみると、日本語には自分の実の親でなくても「おとうさん」「おかあさん」と呼びかける習慣がある。
また、街を歩いている男性と、親の兄弟をどちらも「おじさん」と呼ぶ。
兄や姉でなくとも「お兄さん」「おねえさん」と呼びかける。
そうか、この言語感覚をからだにインストールすればいいんだ!とぼくは思った。
すると、ぼくは実際には長男なのだが、その仮説を採用することで世界に「お兄さん」と「お姉さん」がたくさんいることになる。
そうして観てみると、ぼくを「弟」と思って扱ってくれる人がたくさんいるのだ。
ずっと長男としてしっかりしてきた。
けれども、ぼくも「弟」としての側面を出してもいいんだと思えた。
そしてこれまでは「弟」と思ってくれる人に対しても「上司」として扱うことで、相手の愛情を受け取っていなかったのだ。
けれども、それこそが本来的には「礼儀」に欠ける行為だったんだ。
そして、日本語ではそれを「慇懃無礼」と呼ぶのだ。
兄さん、姉さんには相談してもいい。
わかんないことを聞いてもいい。
頼ってもいい。
もう一人で抱え込むことなんてない。
おおー、そうかそうかと腑に落ちた。
で、今回とくに感じたのは、やっぱり「不自然な行動」をすると、内部の「あり方」に観察が行き届かないってこと。
「笑顔で」とか「感謝で」とかってのは、内側からあふれ出てくるもので、外側をマネしてしても身につかない。
むしろ「できてる」気になってしまい、内省が弱まるんだよね。
あとは「やってる」って意識が強く出すぎちゃう。
「あ、自分、笑顔は心がけてます。相手をリラックスさせるために」とか
「あ、自分、やっぱ感謝しようって思ってます」とか
立派で尊敬される人(チヤホヤされる人)になっちゃうんだよね。
(ちなみに「ちやほや」の語源は「蝶よ花よ」らしい)
でも、「あり方」に目を向けないで行動を変えていくと、やっぱり苦しい。
立派で尊敬されるけど苦しい。
いや、その場合は尊敬じゃない。
そう、「立派だから尊敬」じゃなくて「潔癖だから敬遠」されているんだ。
ぼくはそれよりは「世界はともだち」のほうが嬉しい。
勝ち負けじゃない。
でも、好みはある。
相性もある。
そんな「ふつう」の世界にシフトする。
それが「世界はともだち仮説」なんです。
いいなぁと思ったら、ぜひ採用してみてほしい。