さて今日のテーマは

「喜ばれる」

ですねーー。

このキーワードは小林正観さんの本で
よく出てきていてね。

言葉じたいはよく知っていました。

でもね、ずっと分からなかったんです。

「正観さんの言う、”喜ばれる”って
体感としてどういうことなんだろう?」

って。

というか正確には

「分かった気になっていた」

ですね。

一度「フレーズ」で頭に入れてしまうと

「出来ている」

気になったりする。

それで「喜ばれる」という話を聞いても、

「うーん、それはやっているんだけどなぁ」

みたいに思っていました。

 

しかし、今思うと、ぼくが当時思っていた

「喜ばれる」

というのは、いわゆるおべっかだったのですね。

 

 

整体院を開業して間もない頃かなぁ。

「喜ばれよう、喜ばれよう」として。

やったのは、おべっかを言うこと。

 

もちろん、俺はそのつもりないよ。

けれども、「褒めよう、褒めよう、喜ばれよう」

と頑張ってやっていたことは、結局

「おべっか」

だったんですよね。

 

どこで壊れたのohフレンズ…

 

 

なんでそうなっちゃったかっていうと、

「身体のつながり」が分かっていなかった、知らなかった、体感できていなかったからなんですね。

それは

「意識」

の話でもあるんだけど、そういうのが全然なくて。

 

 

ぼくはコミュニケーションのほとんどを

「言葉」

で行っていたんですね。

 

 

でも大切なのは

 

「ことば以前の部分」なのです。

 

 

有名なナンチャラの法則でも

「ノンバーバルな非言語の部分」

が大半を占めるっていうでしょう?

メラビアンの法則だったかな。

でもさ、今度はそれを学ぶとまた

「言葉」

で捉えてしまうわけさ。

「非言語部分をどうやって良くしようか」と。

 

 

「こういう態度、こういう表情、こういう姿勢」

にすれば「喜ばれる」みたいな。

 

 

いやいや、違うんだよ、当時の俺よ(笑)

 

そういう「作為」が要らないっていうのさ。

「なんとかしよう」
「どうにかしよう」

の奥には自己否定しかなくて。

「このままじゃダメだから」

「なんとかしよう」

なわけじゃない?

 

その「あり方」にこそポイントがあったわけで。

 

でも「あり方」なんて聞くと、また今度は

「どんなあり方がいいんだろう」

みたいに考えたりして。

考えすぎだよ、当時の俺よwwwwww

 

違うのだよ、もっと

「じぶんを好き」

になればいいだけなの。

 

 

そしたら同時に

「目の前の人のことも好き」

になれるんだよ。

 

 

で、その自然体の「好き」が相手に伝わって、

それが

「喜ばれる」

の本質なんだよね。

 

と今は思っているわけですよ。

 

 

なんでもない、なにげない、ふつうのおぜっきーが、
そのまんまで存在して

「あなたはスゴイねぇ、素敵だねぇ」と「本心で思う」。 

その「ことば以前のこころ」が相手に伝わるわけね。

 

 

 

これは「対抗意識」があったら無理なの。

「こいつと俺、どっちがスゴイ?」

「俺のがイケメンやろか?負けてるやろか?」

「こいつの稼ぎはナンボやねん?」

みたいに「対抗」しているときは

相手のことを

「本心で好き」

になれないじゃない?

 

その原因ってのはさ、

「じぶんの本体の存在をゆるしてない」

ってことなんだよね。

 

じぶんという「いのち」が「ここにある」だけ。

そのことにOKが出ていない。

 

ここが真のポイントなんだよね。

 

 

でもこれも、「言葉じゃない」んだよ。

 

体感で伝えたいんだよ。

 

だから、カラダが変わってこないと無理なんだよね。

 

逆に、カラダさえ変わってくれば勝手に現状も変わってくる。

 

最近では

「やたら褒められるようになった」

「動物が集まってくるようになった」

なんて素敵な報告も聞いているよ。

 

 

ホント俺が「知識」に惑わされるタイプだったからねー

気持ちはよく分かるんだけど、

「こじらしてる」

人は

「勉強やめたほうがいい」

と思うよ。

「分かった気になる」くらいなら

「わからない」ほうがまだマシで。

先に体感、あとから知識っていうのがオススメだなーー

 

で、そのためには

「場を共有する」

のがいちばんいいんだよね。

 

この伝達率がいちばん高いのは間違いない。

音叉って、近くにあると共鳴するけど、
さすがに100メートルも離れると共鳴しないもんね。

そりゃ近ければ近いほどいいよね。

 

だからぜひ「ハラの場」を体感してほしいなぁ。