言葉にできないもの、言葉にしちゃいけないものってあるんだよね。

 

でも、言葉にしないと伝わらないものもあって。

 

そのはざまを揺れ動きながら、美しいものを綴りたいと思っているんだけど。

 

 

「ありがとう」という言葉の持つ「重み」と「空虚さ」っていうのは、すべてその人のボディに委ねられている。

 

「重み」のある人が言えば、相手の心の奥底にまで届き、「軽い」人が言えば、空虚に響く。

 

 

「ありがとう」という言葉はお金と同じで、その人そのものを映し出してしまう恐ろしい言葉でもある。

 

 

先日、ディズニーランドにいった。

 

なぜだか分からないが、ぼくのなかに「ありがとう」が溢れていた。

 

この巨大テーマパーク。

 

いったい何千何万の人が関わってくれているんだろう。

 

飲み物を売る人、アトラクションの案内をする人、掃除をする人、工事をする人、お金の計算をして経営をする人…

 

ほんとうに想像もできないほどの膨大なサポートによって、ぼくらが愉しめていると思うと「ありがとう」しかなかった。

 

それから長女の誕生日にいったので、健康に育ってくれたこと、妻が育児をしてくれることなど、ぼくは

 

「ありがとう」

 

に囲まれて暮らしているんだと実感せざるを得なかった。

 

こうして新幹線のなかでブログを書いていても、新幹線のスピード、安定感、静かさ。売り子さん、スタバラテ、それから電子マネー。

 

もう、ありがたすぎて仕方ない。

 

なんて素晴らしい世界なんだろうと。

 

 

しかし、やはり、だ。

 

こう書いてしまうと、どこか空虚に響く。

 

これまでも「ありがとう」を感じてはいた。

 

しかし、今回はその「ありがとう」が深まったのだ。

 

文字にすれば「ありがとう」で同じ。

 

けれども、ぼくの体感では、ぜんぜん違うものになっている。

 

これをどう伝えていいか、もどかしくて悶えている。

 

 

なんとか言葉を絞り出すとすれば、「ありがとう」は手段ではないということ。

 

「ありがとうを言うと、いいことが起こる」

「ありがとうといえば病気が治る」

 

とか、そういう話じゃないんだ。

 

「ありがとう」は、それ自体で完結している。

 

 

「ありがとう」の深みは無限なのかもしれない、と今回の気づきで思った。

 

ぼくが3年前、5年前、10年前に感じていた「ありがとう」は、なんだったのかと。

 

こうやって、どんどん「ありがとう」の味わいが深まっていくのが嬉しいね。

 

 

たぶんね、「ありがとう」の限定が解除されていくんよね。

 

嬉しいことにありがとう。

 

当たり前にありがとう。

 

嬉しくないことにありがとう。

 

 

そうやって限定解除していくなかで、きっと「全部がありがとうなんだ」って気づく日がくるのかもしれない。

 

でも、来ないとしてもそれがきっと「ありがたいこと」で。

 

 

「受け入れられることが増えていく」

 

これこそが、「幸せ」なのかもしれないなって思う。

 

 

そして「受け入れる」ってのは、「反射・反応」しない、ただ応じるっていうことだと思うんだけど。

 

じぶんのなかにある「抵抗」を見つけて、そこに光を当てていく。

 

そういう生き方をしていきたいなって思ってるよ。