幸せになるためにルールはいらない。

 

むしろ、ルールを捨てていくことが「なくならない幸せ」につながるんだ。

 

 

 

 

世の中には、「幸せになるための教え」みたいなのが、星の数ほどあります。

 

「幸せになるための7つの法則」とか

 

「ハッピーレディになるための35のルール」とか

 

そういう「幸せになるための薄っぺらい教え」が、もう川原の石ころのように、ころころと転がっているわけです。

 

 

で、中には、Aさんが唱えるルールと、Bさんが唱えるルールが違っていて、

 

「えー!どっちを選ばば、わたしは幸せになれるの?」

 

なんて悩んじゃったりということがあります。

 

 

そんななかで、「幸せになるための教え」の主流になっているのが

 

「エゴを捨てましょう」

 

的な考え方だと思います。

 

 

「じぶん自身の私欲から大欲にシフトしなさい」

 

「利他のこころで、他人に接しなさい」

 

「エゴを捨て、魂の声に生きなさい」

 

 

など、いわゆる「小さなわたし」の欲望から「大きなわたし」の欲求へと昇華させることで幸せになれると説く教えが多いように感じます。

 

 

たしかに、この系統の「教え」には一理あり、ぼくも体感的に分からないでもありません。

 

 

けれども、解釈を間違うと、むしろ「なくならない幸せ」から遠ざかってしまうのも、この系統の「教え」なのです。

 

 

 

では、その誤った解釈とはどんなふうかというと、

 

それが

 

「~ねばならない」

 

なのです。

 

(幸せのためには)

「利他のこころで尽くさねばならない」

 

「自我を捨て、真我的に生きるべし」

 

「私欲をなくして、公欲を持ちなさい」

 

そういう条件付けと命令形の「べし・べからず」の捉え方。

 

 

こういうものは、「なくならない幸せ」にはまったく不要です。

 

 

「戒律」は、少なければ少ないほど、からだもこころも楽になります。

 

 

ただ、まったく方向性がないと、「いま、くるしい」という方が救われない。

 

 

というわけで、そういった「教え」をハラ的に解釈していきますと、

 

それらの「教え」はすべて、「単なる体験談」

 

と考えればラクに受け入れられるのです。

 

 

たとえば

 

「エゴを捨てなさい」は

 

「エゴを捨てたらラクだったよー」になります。

 

 

「私欲を捨てて公欲を持ちなさい」は

 

「私欲がなくなって公欲が生まれてから、こころがラクになったなぁ」

 

 

「自我を観察し、魂の望みのとおりに生きなさい」は

 

「自我が限界に達したからあきらめて、魂の望み?的なやつにしたがうとラクなんだよねー」

 

と。

 

 

つまり、「教え」というのは、すべて「単なる体験談」でしかないのです。

 

 

ブッダもキリストも、どんな聖者も、ひとりの人間です。

 

1回の人生で、何人分もの体験ができるわけではないのです。

 

だから、どんなに「すごい人」でも普遍的な法則など語れるわけがない。

 

この相対的な世界で、「どこでもあまねく通じる教え」なんてありえません。

 

 

だから、「教え」は「ひとりの体験談」として解釈する。

 

そうすれば「べし・べからず」に縛られることはなくなるのです。

 

 

 

たとえば、ぼくのレベルでも、

 

「自分のことをばかり考えているとき」より、「他人の幸せを考えているとき」のほうが幸せです。

 

自分が気持ちよくなる呼吸法よりも、その場にいる人みんなが浄化されるイメージで呼吸法をしたほうがラクになります。

 

また、今日や明日の売上に一喜一憂するよりも、「ハラ生き道」を極めるんだという「大道をいく」意識があるときのほうが、からだはラクです。

 

それくらいは、知っているし体感しています。

 

 

けれども、これを「教え」としてしまうと、いきなり狂ってしまう。

 

「他人の幸せを考えなさい」

 

「その場を浄化する呼吸法をすべし」

 

「いちいち一喜一憂せずに、大道をゆきなさい」

 

 

「体験談」が「ルール化」してしまうと、突如としてブレる。

 

 

そして、その「教え」をマトモに食らった人は

 

「他人の幸せより、自分の幸せを優先しちゃう自分はダメなんだ」

 

「感謝できない自分は、ダメなんだ」

 

「不安になったり、有頂天になったり一喜一憂する自分はダメなんだ」

 

と、「できない」気持ちが募り、自己否定をしてしまい、なおさら「なくならない幸せ」から遠ざかってしまうのです。

 

 

けれども本来的に、悟ったような人が「~なさい」なんて言うはずがないのです。

 

逆に、「~なさい」と他人に命令するような人は、まだ自分自身と出会っていないのです。

 

 

なぜなら、「悟る」ということは、「他者がいなくなることだ」とぼくは考えていて、そんな人が他人に対して「これこれ、こうしてほしい」なんてことを命令するわけがないからです。

 

 

だから、極端なことを言えば、「命令形の教え」というのは、すべて無視してしまっていい。

 

「べし・べからず」の世界から浸りきっている人から、教えてもらうことなど何もないのです。

 

 

だから今、「なんとなく苦しい」のなら、「一体どんなルールや教えに縛られているのか」を見ていくといいと思う。

 

 

苦しいときは、かならずどこかに「べし・べからず」が潜んでいる。

 

そいつを見つけ、

 

「わたしに”ルール”は不要です」

 

と、そっと言い渡す。

 

 

そうして、どんどんと要らないルールが捨てられていくとき、ぼくらのからだは、さらにラクになっていくのです。

 

 

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