知識というのは、ほんとうに怖いものです。
「分かった気になる」
「できてる気になる」
これは「ただ分からない」「ただ知らない」よりも危険な状態なのです。
たとえば量子力学を学ぶことで
「すべてはホログラムである」とか
「宇宙は思い込みで出来ている」とか
「すべては粒か波動である」
みたいなことを「知る」ことができます。
しかし、この「極論」を現実生活に落とし込めるかというと、なかなかそんなことはありません。
現実は思い通りにはならないし、「他人はいない」と言われてもやっぱり目の前にいるし、「ホログラム」と言われても「実体」を感じます。
もちろん「言っていることは分かる」のです。
たしかに「量子力学」の言う通りなのかもしれない。
ほんとうは「この現実」は「夢」で、「あの世」が「真実」なのかもしれない。
でも、「だから何なんだ」って話なんです。
夫婦ゲンカしていたり、明日食うにも困っていたり、怪我して痛い思いをしていたりして、
「その理論と知識」
が救ってくれるのかということなのです。
「その理論」を実用化して、ハラが減っている人の前に一斤のパンを差し出せるならいい。
「その理論」を利用して、痛くて泣いている人の痛みを一瞬で消し去るならいい。
「その理論」で、目の前にお金の雨を降らせてくれるならいい。
けれども実情はそうじゃないのです。
「ただ言っているだけで体現していない」
つまり理論だけを振りかざしている人が99%なのです。
けれども人は理論では救われない。
理論に論破されれば、「じぶんの感情」を失っていくだけなのです。
はっきり言って
「宇宙の壮大な仕組み」も
「この世の真実」も
「最新の正しい理論」
生きていくのには必要ない。
それよりも、
「じぶんの感情や感覚を大切にしてあげる力」
「目の前の人に寄り添う力」
「現実を直視して生きていく力」
のほうが、よっぽど大切だと思うのです。
恥ずかしながら、ぼくも少し前に空虚な理論や実感・実態のない虚妄のお話をしたりしていました。
けれども現実は何も変わらなかった。
でも「分かったフリ」をして語ってしまった手前、
「その法則を使いこなしてます」
みたいな顔をせざるを得なくなったり、どんどん偉そうになったり、机上の空論をふりかざしたりしてしまった。
実感のないことを語るのは罪だと思う。
その名も「非実感妄想空想主張罪」なんて。
「体感だけを語る」
これは、ブログでもメルマガでも「基本のき」だと思うけれども、あらためて体感のともなわない
「空想・妄言・机上の空論」
を語ることは、ことに気を付けなければならないと思うしだいであります。
そして、これを読んだ方が「虚妄の言」に惑わされぬよう願うしだいであります。