ぼくは、「古来より伝わるもの」が好きですが、懐古主義ではない。

 

別に昔に戻りたいわけじゃない。

「昔はよかった」と感情だけで話すようになったら脳が老人になった証拠。

 

昔より今のほうがいいに決まっている。

生活も思想も進化している。

 

 人類の進化

 

ブッダが生きていたころのインドは、生きるだけで苦しみだった。

 

いや、そんな昔のことを考えなくとも、この四半世紀で生活も思想も、どんどんよくなっている。

 

高校生のころ、父に「おれが学生のころ焼肉屋にいっても、ホルモンしか食べられなかった。お前は高校生でカルビを食べるのか」と驚かれた。

 

そんな僕が子供のころ、スパゲティといえばナポリタンで、「ミートソース」が新しかった。

トマト味がそれほど好きじゃないのでスパゲティじたい好きではなかった。

 

けれども大学生になったとき「カルボナーラ」という「パスタ」に出会い、世界が変わった。

 

 

ぶどうだって巨峰といえば種があって食べにくかった。

しかし今はシードレスのぶどうが主流になり、さらに皮まで食べられる。

 

焼き芋だって今みたいな、ねっとりして激甘なものにはなかなか出会えなかった。

シブい甘みのパサパサな焼き芋が多かった。

 

食はどんどん進化している。

 

大正生まれだった母方のばあちゃんは、竹やりでB29と戦おうとした。

父方のばあちゃんの弟は、大東亜戦争で戦死した。

 

今(のところ)は、日本では戦死することも餓死することもない。

これって人類史上スゴイことなのだ。

「ありえないほどラッキー」な時代なのだ。

 

 

乙武さんが義足で歩くためのプロジェクトが発足している。

 

「色が見える眼鏡」で色盲の方が感動する動画は有名だろう。


 

義手でバイオリンを弾く方もいる。

 

人類はどんどん進化し、その可能性を伸ばしている。

50年後にはフィギュアスケートの選手が5回転半とかしてるんじゃないだろうか。

藤井7段のような天才も出てくる。

 

 「日本に生まれる」という幸運

 

とくに日本は世界の中でも、所得(生活レベル)も平均寿命も一流だ。

 

しかも戦後GHQの政策により「道」が廃れ、「大切なもの」をかなり失ってしまってなお、この底力があるというのは、本当に凄いことなのだと思う。

 

だからこそ今、もし調和を体現する「和の身体文化」が復興されたなら、日本は本当にすごいことになると思う。

 

まさに世界を牽引する存在になっていく。

 

 AIとの共存共栄

 

ここまで人類が「進化」してしまって、もはやコンピュータやスマホ、AIなしの生活には戻れないし、戻る必要もない。

「人類の進化」をすべて否定し、ゴリラのような生活をすることが人間にとっての幸せとは思わない。

 

 

電化製品があり、パソコンがあり、自動車があるという「便利な生活」を享受しながら、かつ「便利さ」に甘んじることなく霊性を高めていく。

 

そういった「身体文化」と「AI」の融合ということが今後、大切になってくるはずだ。

 

「電磁波が危ない。電磁波が怖い」と言ったって、もはや電磁波を避ける生活などできない。

 

南極でもLINEやFacebookができる時代なのだ。逃げ場はなどない。

 

そうしたらあとは「電磁波に耐えうる身体に進化していく」しかないのです。

 

人間の身体は放射能にでさえ強くなっていくという論文があるそうです。

 

だから「電磁波」などのストレスもなくしていくのではなくて、それに耐えうる身体にしていくということが大事だと思う。

 

 新しい文明

 

インターネットなどのツールは、ぼくらが失ってしまったテレパシー機能の代わりなのだと考えています。

 

テレパシー機能を取り戻すために修行しなくともメールがあるし、「千里眼」を会得しなくともFacebookがあるのです。

 

そして外国語を勉強しなくとも将来的には、AIが自動でやってくれるでしょう。

 

そしたらもっと時間が増える。

 

ここがポイントなのです。

 

 

空虚な状態で、ただ時間が増えると、人は「うつ」になってしまう。

「娯楽」や「ひまつぶし」に時間を費やすと、そのまま人間の面白みも感じることなく死んでしまう。

 

先日お会いした方が

「ぼくがヒマになってしまったらエロサイトばかり見ていると思う。だから忙しくしている」

と冗談交じりにおっしゃっていましたが、まさにそうなのです。

 

「時間が増える」というのは諸刃の剣で、「クリエイティブになれる人」と「堕落していく人」に別れていく。

 

そのときポイントになってくるのが「道」というモノサシなのです。

 

 「道」という判断基準を持つ

 

「道」というモノサシがないと、生きていくのは大変になる。

 

それは基準にすべきものが分からないということ。

すなわち「毎回、毎回、じぶんで判断しなければならない」ということです。

 

「この考え方はどうなのか?良いのか?悪いのか?採用すべきかしないべきか?」

 

「食はどうしたらいい?」

 

「仕事はどうしたらいい?」

 

そういった自問の中で「判断基準」がないのはつらいことです。

「判断」というのは人間にとって非常にストレスになる。

 

だから「基準」がないとストレスフルになってしまう。

 

ぼくはその「判断基準」としての「道」を提唱しているのです。

 

 

それは身体に根ざしていきるということ。

 

自然と調和して生きるということ。

 

電磁波とも便利な家電、コンピュータや人工知能とも調和して生きるということ。

 

「人類進化の賜物」によって余った時間は「好きなこと」「興味のあること」をし、それを通じて「道」を体現すること。

 

ブッダが悟ることができたのは「お金持ち」だったからなのです。

当時にしては「豊かすぎる生活」を享受していたので思索にふける時間があった。

 

そして僕らは、さらに豊かな生活をしています。

 

あとは生活レベルを保ちつつ、「失ってしまった身体文化」「豊かな精神」「道」を取り戻すことができれば、人類の進化は完成に近づくと思うわけです。

 

 

 

だから僕は、「人類の進化」も「文明」も否定しない。

世界は豊かになってきている。

 

しかし、それにより失われてしまったものがあるのも事実。

それを取り戻しながら、AIと共存し、クリエイティブで生きがいを感じられる人生を送れる人がさらに増えること。

 

それが、ぼくのビジョンなのです。