さてね、最近は

「わかってほしい気持ち」

について書いてるんだけどね。

人間って複雑でさ、

「わかってほしい」と

「分かられたくない」を

同時に思うんだよね。

 

そう、おれも

「分かられたくない」

があるんだよね。

 

だから、それが現実化して

「わかってもらえない」

を生み出している。

 

「分かられたくない」

っていうのは、なんなんだろうね。

 

 

よく分からないけど、

「あえて理解しにくい行動」

を取ったりしてしまう。

 

おれ、学生のころ、よく

「何を考えてるか分からない」

って言われてたんだよね。

 

今でも嫁さんにたまに言われる。

なんかね、

「気持ちを読み取られるのが怖い」

んだよね。

 

なにか、浸食されるような。

「あー、わかるよ」

という言葉が怖い。

 

「いや、ぜんぜん分かってないくせに」

 

って反発したくなる。

だから「分かってほしい」くせに

「そうやすやすと分かられてたまるか」

という、ひねくれた気持ちがある。

 

そういうことを考えていると、
思い出す人がある。

まだ整体をバリバリやっていたころ。

あるオジサンが整体に来て
10回くらい通っても変化がなかった。

それで

「むむー、なかなか変化が見えませんねー」

とぼくが言うと、おじさんは

「そうだろう、そうだろう。俺の腰痛は筋金入りだからな」

と嬉しそうに言ったのです。

「そうカンタンに治ってもらっちゃ困るんだよ」と。

うーん、素直(笑)

 

何が困るのか。

それは、これまでの

「苦労が台無しになる。水泡に帰す」

ということなんだね。

20年痛みを抱えてきた。

その苦しみがどれほどか分かってもらうまでは

「腰痛が治ってしまったら困る」

のです。

「あの苦労はなんだったのか?!」

と後悔するくらいなら、新しく通い始めた整体に3年通ったほうがマシ、

と思ったりするわけです。

なんだか傍で見ていると笑い話のようだけれど、

ぼくらもそういう側面を持っていて。

「わかってほしい。けど、そうカンタンに分かってはほしくない」

「もっともっと僕の孤独は深いんだ」と理解してほしい。

 

「分かったフリをされると傷つくから、それならいっそ、あえて分からないような態度を取ろう」

と、なかなか素直になれないのです。

 

人間(ひと)のこころは複雑だね。

 

絶妙なバランスで成り立っているマインドやじろべぇ。

 

だから、言葉ではなかなか表せなくて。

言葉にした途端に失われてしまう要素があまりにも多すぎる。

 

「不立文字」

「文字にすべからず」という文字で残された禅の教えが、ことばのパラドクスを味わわせる。

 

だからこそ、「からだで感じる」「体感する」ということを大切にしたいんだね。

 

考えるより、こんなふうに「やる」ほうが1万倍早いよね。