札幌でのカラオケ中。

 

誰かが歌うたびに手拍子をするなり、聞き入るなり、割と「歌い手」が気持ちよくなるような状況が続いていた。

 

しかし、これは偶然か必然か、Aちゃんが歌う最中にオーディエンスの集中が切れた。

 

MさんはHさんと盛り上がり、IさんとFさんで盛り上がり、知らぬ間にAちゃんは1人で歌っている雰囲気になっていた。

 

とはいえカラオケではよくあること、ぼくもさほど気にせず、そのままボーッとしていた。

 

するとAちゃんがマイクで叫んだ。

「みんな、聴いてよ!」と。

 

これには驚いた。

 

Aちゃんが冗談交じりに言ったから、その場は和やかな笑いに包まれたが、そこにピンとした空気が流れた。

 

おそらく、ぼく以外のメンバーも

「あ、しまった」と思ったんじゃないだろうか。

 

 

それからみんな反省して、Aちゃんが歌うときもよく聴くようになった。

 

 

ここには色々な視点がある。

たとえば、Aちゃんからしたら、

「私が一生懸命スピッツを歌っているのに、なんで聴いてくれないの!」

となる。

 

これは至極まっとうな意見で、ぼくは彼女があの叫びを発したのは、思った以上に勇気を要したんじゃないかと想像する。

それは、2年以上、彼女を見ている中で、あのような表現をもっとも苦手としていたことを知っていたからだ。

 

以前だったら「どうせ聴いてもらえない」といじけていたかもしれない。

 

それが今回は「思い」をきちんと言葉にできた。

 

 

「聴いてよ!」

これほどストレートな表現はない。

 

「なんで聴いてくれないの?」

でもなく、

「聴くべきだよ」でもなく、

 

「聴いてよ!」

 

この「思い」が素直に発露しているからこそ、あのときの

「ドキっ」

とした感じが、今もなお、ぼくの心に残っているのだ。

 

 

一方でオーディエンス目線ではどうだろう。

 

みんな、Aちゃんのことが嫌いだったろうか。

Aちゃんの歌をあえて聴かぬようにしていただろうか。

不快な気分にさせようと思ったろうか。

 

もちろんそんなことはない。

 

その場は充分に馴染んでいて、みんなAちゃんのことを、とても好ましく思っていた。

 

なのになぜ、「偶然にも」、皆が歌以外で盛り上がってしまったのだろうか。

 

そこにはAちゃんの内部にある、

「みんな、こっち見ないで」

という思いが関係しているのではないかと推察する。

 

つまり、心の何処かに、

「こっち見ないで。聴かなくていいよ」

という思いを抱えており、「そういう音」を発してしまったために、

みんなが「知らぬ間に」、歌から意識を外してしまった可能性がある。

 

その証拠にAちゃんが「聴いてよ!」を叫んだあと、みんなはAちゃんの歌に集中するようになったが、

そのたびにAちゃんは、とても恥ずかしそうに、熱くなった顔を手で仰いでいた。

 

つまり彼女のなかに

 

「見てほしい、聴いてほしい。こちらに集中してほしい。

けれども、見ないでほしい。聴かなくていい。そっとしておいてほしい」

 

という「矛盾する思い」を抱えていたということになる。

 

 

 

人は誰しも「矛盾した思い」を少なからず抱えている。

 

「矛盾した思い」はエネルギーが相殺されてゼロになってしまう。

 

だから

 

「矛盾した思いを抱えていてもいいけれども、あまりに抱えているとエネルギー漏れを起こしてしまう」

 

ということになる。

 

 

「愛されたいけど、愛されたくない」

「お金がほしいけど、欲しくない」

「健康になりたいけど、なりたくない」

「分かってほしいけど、分かってほしくない」

 

これが人間の4大矛盾と言える。

 

この前半部分は、「素直な思い」が表出している。

 

対して後半部分は、後天的に作られた「ブレーキ」の部分だ。

 

なぜブレーキをかけてしまうのか。

それは、

 

「これまでの自分が変わってしまうから」

 

に他ならない。

 

 

そして

「変わってしまうと損をする」

「変わってしまうと負けだ」

「変わってしまったら、今までが無駄になる」

「頑張ってきた自分は間違いだったと認めざるを得なくなる」

という思い込みが大きく関わっている。

 

 

いずれにせよ、

「思いに反する現実を創造してしまうとき、自分のなかに相反するエネルギーが矛盾して相殺されている」

と考えられる。

 

 

そして今回のケースでは

もしかすると「偶然」ではなく「必然」に、Aちゃんの「思い通り」に、「みんなが無視」する状況になったと考えることができるのだ。

 

もちろんこれは推測の域を出なくて、あくまで仮説だけれども、

「身体の響き」

という観点から考えていくと、充分にありうることだと思う。

 

 

その観点で、

すべての「された」を「させた」に言い換えてみると面白いことが起こる。

 

「殴られた」のでなく「殴らせた」

「告白された」のではなく「告白させた」

「怒られた」のではなく「怒らせた」

「褒められた」のではなく「褒めさせた」

 

のだとしたら…

圧倒的なコントロール増大に喜びに打ち震えるのではないだろうか。

 

もちろんこれは「理想論」で、また現実とは別だけれども、

ボディをリストラクチャー(再構成)して、

 

「愛させて、褒めさせて、大切にさせるカラダ」

 

が造れるとしたら、とっても夢のある話になると思う。

 

 

じぶんのカラダへの観察は、恒久の奥深さを持つ探求となる。

 

 

さて、あなたのからだは、周りに

「どうさせる」

カラダだろうか?