ぼくは「和」が好きで、今年は
「和の身体文化の復興」
を掲げ
「和の礼儀作法」を広めていこうと思うわけですが、
中途半端で形式的な「和風系」のものを広めたいわけじゃないんですよね。
ホントね、形式にこだわってるのって、すごく嫌いなんですね。
だって意味ないじゃないですか。
ぼくは「文化というのは”機能”であって形式ではない」という考え方を取っています。
つまり、そこに「文化」があるならば、それには「意味」があるはずであり、「意味」が必要だということです。
たとえば「合掌」という文化があるのなら、それは何かしら手をわせる「意味」があるということです。
言いかえれば、「なにかしら身体に影響を及ぼすことがある」ということです。
そして「何かしら身体に影響を及ぼす」から「心理にも影響を及ぼす」のであって、それがコミュニティ全体に影響を及ぼしていくということです。
そういった「意味」と「機能」を考えることが「稽古」です。
つまり「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ということです。
それをせずに、ただ
「昔からやっていることだから」
「ごちゃごちゃ言わずにやればいい」
「そういう伝統だから」
という懐古主義でやっていくと、逆に文化が廃れていくのです。
文化を継承するということは、先人の呼吸・考え方・あり方を感じ取り、その「本質」を後世に残していくことだと思います。
つまり「形式」は、どんどん進化発展させていく。
昔のままの「形式」では、逆に「本質」を守ることができない。
不易流行ですね。
本質という変わらないもの(不易)を守り、形式は流行に載せて変化していく。
それが割と逆になりがちなのは、形式につい目を奪われてしまうからです。
たとえばコレ。
日本刀の画像を見たら「和風だ!」「日本だ!」と思うかもしれない。
詳しく知らない外国の人は「サムライ!」なんて喜ぶかもしれない。
でもこれ、刀を右手で持って鯉口を切ってますよね。
ということは左手で刀を抜くということになります。
左に差してる刀を右手でもって左手で抜く。
常識的にはありえないですよね。
(むろん、そういう流派があるかもしれませんが、ぼくは寡聞にして知りません)
つまりこの画像は、いわゆる「素材」を作ろうと刀や武道のことを知らない人が適当に
「それっぽい」
写真を撮ったのだと思います。
ぼくは、この「それっぽい」というのが、すごく大敵だと思うんですね。
「日本の伝統風」のものはどうでもいいのです。
大事なのは、その「伝統」のなかにある「機能」なんです。
たとえば「なまはげ」にせよ「棒の手」にせよ、継承の危機にある伝統芸能なんかは、それがどういう由来ではじまったのかを知ること、
そして後世に
「何を」
残していくのか、ということを真摯に考える必要がある。
ただ形式だけで、後継者がいないのなら、正直、淘汰されてしまえばいいのです。
時代の流れとともに不要になれば淘汰されていく。
それが自然の摂理というものです。
感情論だけで何かを残していくのを「老害」というのだと思う。
だから僕は合気道も形式でやりたくないのです。
とはいえ「形式」が人気なのも知ってはいるんです。
「袴をはくのがカッコイイ」
「人を投げ飛ばしている気分になれる」
「技が掛かった気がする」
そういう形式の喜びがなければ国内100万人の合気道人口にはならなかったでしょうね。
けれども「形式」に陥ってしまっている合気道も多いわけです。
つまり「合気道がスポーツになっている」こともよくあるんです。
ただ動きの形式が合気道っぽい。
道着を着て、袴をはいて、合気道っぽい。
木刀などを使って、合気道っぽい。
しかし、その内実は、「いつも使う普通の筋肉」をただ動かしているだけで「文化的な動きの質」の変容が見られないものも多いのです。
木刀の素振りをして
「素振りを続けていたら肩の筋肉がついてきました!」なんて嬉々として報告してくる人もいましたからね…
ただ「汗をかく」ためだけの「運動」に成り下がっている。
ただね、それはそれでよいのです。
シンプルだし分かりやすいので「それっぽい」だけなら難しいことを考えなくてよい。
だから、そういう「アタマは使わずにやるスポーツ的な合気道」があってもよい。
ただ投げたり投げられたり関節技をかけたりかけられたり「それっぽい」ことを好む方もいます。
それはそれで全然よいのです。
ただそれは「和の文化の本質」ではない。
動きの質が変容して、カラダの遣い方が根本から変わってこなければ、「道」の面白みというのは見えてこないし、文化の本質も掴めないのです。
なぜ日本が「和」なのか。
そういうことを身体で体感し、体現していく。
「和」とは、どういうことなのか。
先人の感じていた世界はどんなものなのか。
それさえ体感できれば形式というのはどうでもいい。
だからウチの合気道の稽古は私服でやります。
袴は、そもそも「脚の動きを相手に悟られないため」という機能があったと言われていますが、現代においては秘伝もなくメソッドを伝えているので袴で隠す必要はありません。
たしかに袴はカッコイイんですよ。
しかし、「この袴カッコいいでしょ」という感じで「武道やってます」みたいな顔って、見ていられないくらい恥ずかしい。
「武道やってる人」の顔つきを無意識に真似するんですかね。
「真剣にやっております」のアピール顔みたいになっちゃうんですよね。
まぁ、それは初学者にありがちなことなんですが、そういった「自分に酔っぱらっている状態」では身体の質をシフトさせていくことはできない。
あくまで「っぽさ」ではなくて、本質をつかんでいく必要があるのです。
「和の礼儀作法インストラクター養成講座」では、ぼくの知りうる限りの本質をお伝えしたいと思っています。
「礼儀作法」というと堅苦しく、マナーみたいなイメージがありますが、ぼくはそういうことには興味がない。
そうではなくて、古の日本人が「礼儀作法」を通じて伝えたかったことを自分なりに感じ取り、それをお伝えしたいと思っています。
そして、そういうことが分かる人とともに活動していきたいと思っています。