最近は、ミッションについてよく考えています。
ぼくの活動は、どうしたら「一言」で表せるのか。
そういうことを、ずっと考えてきました。
そしてあるとき、ふと思いついたのです。
「和の身体文化の復興」
だと。
「和の身体文化」の「和の」には2つの意味があります。
それは「日本の」という意味です。
日本に古来より伝わる「達人」の身体技法、身体操作という意味。
それから「調和する」という意味です。
日本の身体文化というのは「調和」という言葉でくくることができると思います。
それこそが「大いなる調和」の「大和魂」のなんだと。
それは「無理の無い」つまり「理にかなった」からだの遣い方です。
人間の骨格と筋肉を最大限に活かしきる身遣い。
そういうものが「礼儀作法」として、日本には残されてきました。
しかし今や「礼儀作法」は形骸化し、ただの堅苦しいお題目と化してしまった。
「息苦しいもの」
「面倒くさいもの」
「古臭いもの」
そう捉えられ、時代のどこかに置き去りにされようとしています。
同時に「つながり、調和する幸せ」である「道(どう)」もどこかに行ってしまった。
これは戦後、ある意味、必然の流れでした。
GHQにより武道が禁止され、3S政策が敷かれ、日本人は骨抜きにされました。
そして見事に70年で、ぼくらは「骨抜き」にされ「腑抜け・腰抜け」となってしまったのです。
しかし今こそ「和の身体文化の復興」の時です。
今まで「当たり前」であったものは、失われてはじめて価値を持ちます。
「礼儀作法」などによって連綿と伝わってきた身体操作が、「腰抜け」なぼくらの身体に喝を入れてくれます。
「和の身体操作」は、心理状態と大きく関係します。
ゆえに、「和の身体操作」の上達には人格の向上が欠かせないのです。
西洋式の筋トレであれば「人格」は関係ありませんが、「和の身体操作」においては、感情のブレが即「からだの軸」のブレになるため、精神修養が必要になります。
からだは機械や、たんなる物質ではありません。
からだは、「目に見えるこころ」なのです。
だからこそ、「和の身体操作」を身につけることは、「幸せの本質をしり、絶対的な幸福を得ること」と同義になります。
「無理のない身体操作」を身につけることは、「無理のないラクな心理状態」を生み出します。
おだやかな身体は、おだやかな感情を生みます。
それが「礼儀作法」の効用なのです。
しかし、その効用は現代日本ではほとんど知られていません。
本来は「筋肉を増やして誰かに勝つ」ことよりも「和の身体操作を身につけ、調和する身心を育む」ほうが良いのです。
他人と比べるのではなく、その人が持つ個性や才能を活かしていく。
その「型」こそが礼儀作法なのです。
その素晴らしさが、現代の日本にはほとんどと言っていいほど伝わっていません。
見た目は「武道」でも、あり方が「スポーツ」というものも多い。
「礼儀作法」のように見えるけれども、虐待だったり暴力だったりするものもある。
本来の「礼儀作法」とは、「その人が個性や才能を発揮するための型」です。
指導者側の都合のためにあるものではない。
ぼくはそういったことを伝えていきたいと思っています。
せっかく素晴らしいメソッドが日本にあるのに誰も知らないなんて、もったいなさすぎます。
からだには、無限の可能性があります。
精神論に陥らず、まっとうに「道」を歩んでいくのには、「からだ」に即して考えるのがいちばんだと考えます。
身心を統一し、他人と、そして自然と調和する「礼儀作法」。
この5つのステップを順に実践することで「和の礼儀作法」が身についてきます。