1216日。

 

朝の9時に実家を出発して札幌へ向かう。 

 

道中、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」を読了。

 

その中にある「声をとどける」「言葉をとどける」「触れる・触れられる」の項目が心に残る。

 

ハラ生き道とは何かということを考えたとき、「コミュニケーション」ということは外して考えることはできない。

 

むしろハラ生き道とは合気道と整体を通じて得た「コミュニケーション法」を伝えるものだと言ってよいかもしれない。

 

札幌での飲み会のあと2次会でカラオケにいった。

 

そこでは7人の歌声が交互に室内に響きわたる。

 

ぼくはひっそりと耳を澄まし、音の「波動」を聞いてゆく。

 

すると、音それぞれに「個性」があることが分かる。

 

声色の違いというか「振動数」が違うという感じだ。

 

つい一緒に手拍子をしてしまう音、どこか届きにくい音、ついみんなが静まって聞きほれてしまう音、恥ずかしげな音、どこまで出そうかためらっている音…

 

それぞれの音の振動数で「場」が変わる。

 

 

コミュニケーションは一般的に「なんとなく」で済まされてしまうことが多い。

 

「なんとなく苦手」 

 

「なんとなく好き」 

 

「なんとなくいい感じ」 

 

「なんとなくイヤな感じ」

 

しかしそれをじっくり味わい観察してみると、ちゃんとその理由があることが分かる。

 

 

「よい感じ」のするものは「交わっているもの」。「交わる気のあるもの」「開いているもの」

 

「イヤな感じ」のするものは、「独りよがりなもの」「自分勝手なもの」「閉じているもの」だ。

 

 

それは「言葉になる前の振動」だと言える。 

 

どんなに美辞麗句を連ねても、「ことばの振動数」が粗雑であれば、雑なコミュニケーションにしかならない。

 

雑ということはエネルギー値が低いということ。

 

エネルギー値が低いということは「誰かに与える影響が少ない」ということになる。

 

 

そして、その「ことばの振動数」は何で決まるかと言えば、「からだの振動数」に同調している。

 

だから、からだを「密」で(つまり空っぽで)、丁寧で、ゆっくりとした振動数にしていく必要がある。

 

からだの密度が高まれば高まるほど目の前の人に与える影響は大きくなる。

 

つまりエネルギー交流が盛んになるということ。

 

=「幸せの総量」が増えるということなのだ。

 

 

我が愛すべき妻は、男性の好みを「声」で決める。

 

いわく「どんなにイケメンでも声がダメなら全部ダメ」。

 

いわゆる「声フェチ」というやつだ。

 

いろんなフェチがあってしかるべしだが、とみに「声フェチ」というのは本質をついていると言える。

 

つまり「ことば」は隠すことができても「こえ」は隠すことが出来ないからだ。

 

ハラの据わったマトモな男性を選ぶなら声で選べ。

 

そんなキャッチーなフレーズをつづることができるかもしれない。

 

妻に選ばれた僕は「よい声」を持っているのか。

 

しかし10年前は、ぼくも「まともなコミュニケーション」つまり「愛」を知らなかった。

 

おそらく妻のハラは、ぼくを好んだというよりは「教育」をするためにぼくを選んだのではないか、などと考えている。

 

 

生きるとは。

 

そんな答えを36歳で出すのは早すぎる。

 

しかしとりあえずの仮説として

 

「じぶんの“音”をそのまま出し切ること」

 

と表現することができるかもしれない。

 

じぶんのもっている「そのまんまの振動数」を我慢することなく、抑えることなく、過剰にすることなく、

 

「そのまんま出す」

 

そこにある「響き」、相手とのつながりこそが「幸福」だと言えるかもしれない。

 

 

そのために大事なことは何か。

 

それは「向かう合う」ことなんだと思う。

 

カタチの上とか、コトバの上とかでなく、「中身どうしが向かい合う」。

 

 

「向かう」とは、「目交う」であろう。

 

つまり「視線」が交差・交錯すること。

 

これは「まぐわい」と同じ意味だと言える。

 

からだとからだをはっきりを使う「まぐわい」はセックス。

 

からだとからだが触れ合わない、もしくは近接するのみのものを「向かい合う」と表現することができ、その本質は同じものであると言える。

 

 

逆に、性器と性器をこすり合わせても、「目・視線・意識」が交わっていなければ、それは

 

「ふたりオナニー」

 

だと言える。

 

 

そこにあるのは「さみしさ」しかない。

 

「ふたりオナニー」のあとの「むなしさ」を感ずるならまだマシで、「スッキリした」という「快感」が残るのなら、コミュニケーション病の重症者と言っていいだろう。

 

「オナニー」ではエネルギーが放出される。

 

「セックス」ではエネルギーが充填される。

 

ハラ感覚が鋭敏になってくると、この違いがはっきりと分かるようになる。

 

この違いが分からない限りは

 

「今ここで、満たされる」

 

という感覚は永遠につかめない。

 

何を達成しても、失敗しても、どこにいても「なぜかむなしい」。

 

それは「エネルギー交流」「意識(目)」「つながり」ことを忘れてしまっているから。

 

 

じぶんを開き、ハラを開く「コツ」さえつかめれば、おのずと「満たされる」ということが身体で実感できてくると思う。