「和の身体文化の復興」
を掲げてから、生きることがさらに愉しくなった。
生きることのビジョンを持つということ。
ビジョンに気が付いて、
「これほどにビジョンが大事なのか」
と思い知った。
さて、そんな中で今まで以上に
勉強を深めている。
とりわけ日本の文化と西洋のそれを比較するような本を読んでいる。
やはり自国にいては、日本目線で見てはその「価値」が分からないことがある。
「外国人」の目線を借りて日本の文化を、
とくに「日本の身体文化」を見ていくことは大事だ。
さて、さきほど読了したのは、かの有名な
「弓と禅(オイゲン・ヘリゲル)」
ドイツの哲学者が阿波研造という弓の名人に弟子入りし6年間で開眼するまでの話だ。
こちらは以前に読んだことがあったが今回あらためて読みなおした。
すると、さすがに様々な気づきがある。
いちばんのポイントとなったのは
「”それ”が射るのです」
という話。
ヘリゲルは師の阿波研造から
「矢を持っている手を放さずに放て」
という禅問答のような要求をされる。
言葉をメインにして思考するドイツ人哲学者のヘリゲルは、ほとほと困惑し、辟易する。
「そんなことは無理です」
と。
「あなたが意図を持って矢を放ってはいけない」
と阿波師から言われる。
「では、”何が”射ればよいのですか?」
ヘリゲルは食らいつく。
阿波師は
「”それ”が射るのです」
「仏陀が射るのです」
と答える。
ヘリゲルは、「まったく分からない」
と嘆くが、修行を積む中で
「それ」
をつかんでいく。
そんなノンフィクションを読みながら
「この視点を忘れていた」
と思った。
すなわち
「起こる」
ということを大事にするということ。
そして「する」ということを減らしていくということ。
これは、
「ハラまかせ」
「惟神(かんながら)」
「無心・無我・則天去私」
などと言いかえることができるだろう。
「ああ、そうだ作為を捨てるのだ」
「無為だ」
と思った。
無為とは
「どうしたらいいんだろう?」
「あれをやってやろう」
「こうしたら、こうなるだろう」
という思いを手放し、捨てるということ。
「任せる」とは「負かせる」。
つまり「神に負けること」だと野口三千三氏は言う。
そのために必要なものは「勇気」。
「どうなるか」を予想せずに、「流れ」に乗っていく覚悟。
ヘリゲルが「無為」の「射」をしたとき、師の阿波研造は、深々とお辞儀をしたと言う。
それでヘリゲルが驚いていると
「あなたもお辞儀をしなさい。私は、あなたにお辞儀をしたのではなく、仏陀(それ)にお辞儀をしたのです」
と。
つまり言葉にならぬ「大いなる何か」に対して頭を下げるのだ、と。
「ああ、こんな生き方、最高だ」と素直に思った。
この「道」のあり方をモノサシに考えると
いわゆる
「うまくいっている」
「儲かっている」
「人が集まっている」
と標榜している人たちをどう捉えればよいか
ということも見えてくる。
ぼくらはつい表面的な事象に囚われがちである。
ボディの面でいえば
腹筋が割れているとか
おっぱいが大きいとか
いわゆる「スタイル」がいい、とか
「見た目」に囚われがちだ。
これを「見の目」という。
けれども「道」においては
「観の目」
と言って、その「奥」を観る力、すなわち「見抜き」「見通す」力を重要事項と捉える。
それを以て
「うまくいっている」
「儲かっている」
「人が集まっている」
と自称する人たちを観れば、
そこに「作為的な響き」を感じることが多いだろう。
もちろん中には「道」に通じている人もいるのだろうが、
表面的・一時的な華やかさのみを追求し、
本質からはむしろ遠ざかっている人も多い。
何がニセモノで何がホンモノか。
その言い方では不毛な議論が生まれてしまう。
しかし、それが
「道に適うかどうか」
という問い方をすれば、きちんと答えが出る。
すなわち、その本人の「表面上の言葉」ではなく、
「身体」「姿勢」「目線」「声の響き」
などが道に通じているかどうかを判断すればよい。
ついついこちらも窮状に陥ると
「すぐにうまくいく方法」
「一発逆転ホームランを狙う方法」
「エゴを刺激する方法」
「カンタンに有名になれる方法」
などに惑わされ、そこに触手を伸ばそうとするが、
多くの人が経験するように、
そのような方法では根本的な解決にならないどころか、
むしろその窮状を加速させていくのである。
そうならないためにも
「観の目」
を養い、
「なんとなく怪しい人」
を見分け、
「道に通ずる人から学ぶ」
ということが大切になってくる。
そして「観の目」を鍛えるには
「からだの軸」を整え、「見えない流れ」を捉える訓練をしていけばよい。
すると、おのずと
「観の目」
が鍛えられてくるだろう。
これからの時代、虚構や虚飾はもはや通用しない。
「ホンモノが生き残る時代」、
小手先のテクニックではなく、
「本質」をつかむ王道を行くことだけが
何よりも大切になってくる。
まだまだ僕にはほど遠い世界だが
「和の礼儀作法」も
「ハラ生き合気道」も
「無為」
を求めてやっていきたいと思う。
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