「やりたいことはなんだろう」と考えたときに、
「〇〇を教えることをしたい」
と思ったときは要注意だ。
なぜなら「教える」ことをしたいとき、じぶんのなかに
「出来てる」
という意識が芽生えているからだ。
この「できてる」というやつがクセモノで、だいたいは進歩が停滞しているときに生まれてくる感覚だ。
「教えたい・伝えたい」と感じるとき、多分に
「あの人はダメだ」
「もっとこうすればいいのに」
「あれは変えたほうがいい」
という思いがある。
そんな余計な「おせっかい意識」が、ぼくらのハラにあろうはずもない。
「教えたい・伝えたい」の意識が肥大してくるときというのは、たいていが実践不足である。
なぜなら、「じぶんはできている」と感じているから。
つい怠慢になり、「あり方」がブレてきている。
これはぼくの恥ずかしい経験から来ている。
「ハラ生きを伝えたい、伝えたい」
と思っていたものの、どうも反応がない。
なんだか、読まれている気がしない。
なぜだと考えてみたら、じぶんのハラ生きレベルが下がってしまっていた。
じぶんを安全な位置に置き、そこから失敗しても大して傷つかないような、「こざかしいジャブ」しか打っていなかった。
つまり「アタマ」に支配されてしまっていた。
そんな中で「ハラだハラだ」と口先だけで「伝えたがって」いた。
これは癒されていない人ほど癒したがる、救われたい人ほど救いたがるのと同じ構図であった。
「〇〇に関しては?わたし?もう”卒業”しちゃったから?いま苦しんでいる人を助けたい」
そんな卒業マウンティングになってしまっていた。
それで、どうしたらこの状態から抜け出せるのか考えたときに、
「じぶんが道を進むしかない」
と思った。
そして本当の意味で「やりたいこと」に向き合う必要が出てきた。
「ハラ生き道を伝えていきたい!」はニセの「やりたいこと」であった。
じゃぁ、本質的にやりたいことってなんだろうと。
そこで出てきたのは「合気道」だった。
つまり「プレイヤー」としての「やりたいこと」だった。
合気道であれば、じぶんの未熟さもよく分かるし、まだまだ謎だらけだし、研究テーマとしても面白すぎる。
そして合気道は「教えたい」のではなく、「やりたい」ことなのだとハッキリ分かった。
そして「からだの研究家」として合気道を研鑽していくなかで見えてきたことを伝えていくなら、違和感がないと思った。
ハラ生き道は、そういう位置づけでありたい。
つまり僕が違和感を覚えるのは、
「じぶんの成長が止まってしまって、”下位の人”に目が向いていること」
なのだ。
だから「教えること」を本業としていても、
「教える人として成長を続けている」
のなら違和感はない。
それが
「なぜ伝わらないんだ」
「なぜできないんだ」
「なぜ分からないんだ」
という意識になったとき、なんだかおかしなマウンティング発信をしてしまったりする。
「下位の人」と付き合うのはラクである。
「すごい」と言ってくれるし、なんなら依存してくれるし、持ち上げてくれたりする。
しかし小さなコミュニティの「お殿様」になっているうちに、どんどん軸がブレていく。
「わたし、出来てる人。あなた、出来てない人」
そうやって「教えたい、伝えたい」の意識が醸成されてくるので、注意が必要だと思うのである。
ちなみにハラ生き道や和の礼儀作法に関しては「教える・伝える」というより、
「感動のシェア」
という側面が強い。
「ねぇねぇ、これスゴくね?」と。
そこに旗を立てて活動しているつもりだ。