父の急死から13日が経った。
おかげさまで1/13(日)に「お別れの会」も無事に完了し、一区切りがついた気がした。
2週間で、いろいろなことを思った。
それを暫定的にまとめてみたいと思う。
親父への復讐
このことは、どうしても書いておかねばならない。
ぼくは、どこかで「親父への復讐」を企てているところがあった。
おそらくそれは「さみしさの反動」だった。
仕事ばかりで家庭を顧みない父に対して「この寂しさをアンタも味わえ」というような気持ちが奥底にあった。
今回、親父からきていたメールを無視して返さなかったのは、無意識的にその思いがあったと思う。
飲みに誘われても、どうしても
「何をいまさら」
と思ってしまう。
父は関東に住んでいて、ぼくも母も名古屋に住んでいる。
たまに母を誘って、ウチの家族と、たとえば出かけることがあった。
それも、どこかで親父に知ってほしい気持ちがあった。
母が「今日は、直人家族とおでかけしたんだ~」と自慢して、父が寂しい気持ちになればいいと、どこかで思っていた。
「親父が仕事ばかりでさみしい」という思いは、小さい頃から顕在化することはなかった。
「親父は家にいないもの」であって、「さみしいと感じてはいけない」と思っていたのかもしれない。
だから20年前、ぼくが高校生のころ親父が中国に単身赴任が決まった時も、なんとも思わなかった。
「あ、そう。で?」
としか思っていなかった。
しかし、父は非常な寂しがりであった。
聞くところによると出張中でも、1人で晩飯を食べられないほどだったという。
その寂しさを仕事で埋めようとしたのだと、ぼくは感じている。
そして仕事にのめり込めば込むほど、家族との距離は遠のいていった。
ぼくが今、このことに関して父に伝えられるならば
「愛はそんなに甘くない」
と言いたい。
20年も30年もかけてできた壁は、そう簡単には崩れない。
カタチだけでも言葉だけでもダメなんだ。
「記念日を携帯が知らせてくれて、そんな時だけうまく立ち回っている」(by桜井和寿)
と思われて終わりだ。
しかし、時代もあったと思う。
ぼくが親父と同じ時代に生まれていたら、今のような生き方を選べたか分からない。
ただ人間は進化していく。
新しい人間のほうが、「お得な考え」ができるのは当たり前だ。
ぼくは、この「さみしさ」を癒しながら、愛に対してストイックでありたいと思う。
片手間では無理なんだ。
死ぬ気でじぶんを見ていかないと、愛はその影すらつかむこともできない。
死にまつわる被害者と加害者
身近な人が急逝した場合、「誰が被害者になるのか」がポイントになると思った。
たとえば息子のぼくは
「親父が死んだんだよ?わかってよ!」と主張し免責されたい。
母だって
「主人が急逝したんです。大変なんです!」と言いたい。
会社関連の方は
「大事な案件が進んでる最中なんです!」と言いたい。
急に死なれると、多方面に多大な迷惑がかかる。
遺族は、会社の方にとっては「加害者」になり、
「仕事の件でご迷惑をおかけしてすみません」
と謝る。
こちらだって泣きたい気分だけれども、やはり「加害者」になる。
でもほんとは、ものすごく被害者。
それは家族内でも起こる。
たとえば僕は3兄弟で、全員結婚しているけれども、兄弟の旦那さんや奥さんにとっては「えらい迷惑」だったりする。
実の子供はいいけれども、そのパートナーたちも年末年始のお休みがみんなパーになってしまった。
ぼくも家族もそうで、
ぼくは「親父が死んだんだよ?」と言いたい。
けれども、「家族で楽しめる冬休みがなくなってしまった」という意味で、ぼくは「加害者」でもあった。
ただし今回は誰もが「被害者」にならずに最大限の協力をしてくださったおかげで、大きなトラブルはなかった。
しかし、死にまつわる独特な問題だと思った。
こんなときでも「被害者意識」というのは、いいことがひとつもない。
死と命を軽視する
現代は「死」や「命」を重く見すぎているきらいがあると思う。
もちろん「人の命は地球よりも重い」という考え方もあっていい。
けれども、そういう見方があるのなら「人の命はアリよりも軽い」という見方も知っておいたほうがいい。
人の命を重く見すぎるから、「死」が怖くなる。
生がかがやく程度に死を畏れるのは分かる。
生のために「死」を利用するのはいいと思い、ぼくも結婚指輪の内側に「メメント・モリ」と彫ってある。
けれども、あまりにも「死」を重く見すぎると、生までもが重たくなってしまう。
まじめに、間違えないように生きねばならないように感じてしまう。
それならいっそ、生を軽くみてもいいのではないかと思う。
「70億もあるんだから、ひとつくらい大したことないよね」と。
こういった考えを「不謹慎」と思う人もあるだろう。
しかし、「命を軽く見る」ことで悲しみが和らぐ人もいると思うのだ。
あるアフリカの地域では、赤ん坊が死んでしまっても、悲しむのは1日だけで翌日からは明るく過ごすのだそうだ。
それは乳幼児の死亡率が高いために自然と発生した文化なのであって、不謹慎ではないだろう。
生と死にまつわる智慧なのだ。
もちろん個人を弔うことは悪いことではない。
けれども、いつまでも故人に引っ張られて生活がままならないようなら、いっそ「命を軽く見る」という手段を講じてもいいと思う。
もし生も死もギャグであったなら、どんなにか世界は明るいだろう。
悲しみを湛えながらも「死んだんかーい!」という笑いに昇華することができたのなら、そこに健全な魂があるのではないかと思う。
毎日毎日毎日毎日、ずーーーーーーーーーっと昔から人は死んでるんです。
だからぼくは、父の死だけを特別視はしたくない。
親族が死んで悲しいのは、ぼくだけじゃない。
けれども、息子としてちゃんと悲しみたい。
けっして完璧な父親ではなかったけれども、たった一人の父親であった。
そのかなしみを、ちゃんと享受したい。
命を重く見たり、軽く見たり、自在に視点を変えながら複雑な感情を味わいつくしたいと思っている。