親父の死から、ちょうど1か月が過ぎた。
2週間目に「総括」として記事を書いた。
しかし、よくよく考えたら、とても総括できるような代物ではなく、まだまだ「心の大きな何か」が存分にのしかかっている気がする。
面白いことに親父のことを想うのは、いつでも朝方なのだ。
ふと目が覚める。
「あれ?親父死んだんだっけ?」
と思う。
ふっと気が抜けたときに、まるでその隙間に入り込むように、父の面影を思い出す。
どこか信じられてない。
晩年は、関わりが薄かったこともあるだろう。
年に数回、会う、連絡をする程度だったから、ぼくにとっては「父が死ぬ」というのは、物理的には、その量の情報量がなくなることでしかない。
しかし、たとい連絡を取らずとも「世界のどこかにいる」ということが無意識的に大きな支えになっていたのだろう。
それがなくなり、不思議な喪失感がある。
同時に、父が死んだときにあった「恨み」のようなものが薄らいできた。
あの「恨み」はなんだったのか。
「急に死にやがって。さみしいじゃないか」
という「うらみ」なのか。
「仕事と家庭」を両立できなかった不器用な父への「うらみ」なのか。
そこは分からない。
しかもその「うらみ」が薄れてしまった今、さらにどういう感情を持っていたのか忘れてしまっている。
思うに、ぼくの「防衛本能」だった気がする。
「急に死んじゃって悲しいよ」
その思いに気が付いてしまったら、あまりにも辛いから、
「バカヤロウ!」
という思いでカムフラージュしている。
そういう心のはたらきなのではないだろうか。
そして、カムフラージュの隙間から、徐々に「さみしさ」が漏れてくる。
今は、そういう期間なのかもしれない。
今朝、早くに目が覚めた。
隣で家族が寝ている。
その寝息を聞きながら、父が脳卒中で倒れ意識不明だったときの呼吸を思い出す。
まるで死にゆくものとは思えない、堂々たる呼吸だった。
その息吹は、まだしっかりとここにある。
さてこの先、四十九日に向けて、どのような心模様となるのか。
そこが見ものである。