最近は、「からだの濃度・密度」ということをよく考えています。

 

余計なリキみがあるとき、「雑な力」しか使えないとき、からだの中が「粗い」感じがする。

ひとつひとつのブロックや粒が大きい。

図1 粗い身体

 

 

そういう身体は「粗雑な」印象を与える。

 

そしてエネルギーがない。

 

モノを書いても、絵を描いても、踊ってみても、話をしても、軽い。薄い。浅い。

端的にいって、つまらない。

 

そういうものは大抵「アタマ」で考えてつくったもので、ぼくはそれを密度の問題だと感じる。

 

 

 

 

モノやコトバには、その人のカラダの「振動数」が同調する。

 

だからカラダの振動数が粗い人がつくったものは粗雑で軽く、エネルギーがない。

 

 

そこで、からだの密度を高めていきたいところだけれども、その方法論というのが

 

「繰り返す」

 

ことしかないというのが、今のところのぼくの結論だ。

 

 

同じように見えることを、何度も何度も何度も何度も繰り返す。

 

その中で、徐々に身体が緻密になってくる。

精密なあり方になってくる。

 

しかし「繰り返す」にもポイントがあって、漫然と繰り返しても身体は濃密にならない。

 

からだの密度を濃くするためには、

 

「意識的に繰り返す」

 

ということが最重要になってくる。

 

 

オートマチックに繰り返されるものでは、あまり身体の密度は変化しない。

 

だから「ただ歩く」や「ただ呼吸する」だけでは、身体の密度は変化してこない。

 

歩くなら歩くことに、呼吸するなら呼吸することに「きちんと意識をおく」ことによって、からだの密度が深まってくる。

図2 密度の濃い身体。 細かくなり、すき間が減り、下に落ちる

 

 

 

それはおそらく「観る力」が高まってくるからだと思う。

 

「意識的に」行うことで、「細かく観る力」が養われる。

 

そして「細かく観る」ことによって、身体の分割が進み、すなわち濃度が高まってくるのだろう。

 

一回一回の呼吸の折り返し、一歩一歩の足の上げ下ろし。

 

そこで「起きていること」をどれだけ観られるか、感じられるか。

 

その能力こそが「身体の密度」に関わってくる。

 

 

そして「身体の密度」が高まれば、その人の能力が開花してくる。

 

絵を書けば「魂に響く」重さが出てくる。

 

武道であれば「突き」でも「投げ」でも強くなる。

 

書道、歌、営業交渉、恋愛、思考の深さ…

 

 

いずれにせよポイントは「なるべく意識的に繰り返す」ということ。

 

同じように見えることを何度も何度もやる。

 

そこに「密度」や「重み」が出てくる。

 

これは一朝一夕で身につくものではなく、死ぬまで続けていくものだと考える。

 

「繰り返し」

と言っても、時間が流れているのだから同じことを繰り返すことはできない。

 

けっきょくは「一瞬一瞬を大切に」のようなスローガンになってしまうけれども、真理なのだと思う。