何を求めていくかによるんだろうけど。
「幸せ」ということを追求していきたいのなら、
「ゆるす」
ということが大切になってくると思う。
なんてことは、もうずっと前から言われていることで。
星の数ほどの「ゆるし」の情報があふれている。
「ゆるす」という3文字の言葉をつむぐことは、息を吸うように簡単なこと。
誰にでも言える手軽で、誰にも否定されなくて、なんとなく悟った気になる便利なことば。
「ゆるす」
しかし、この言葉の本質というのは、きっとほとんどの人が分かっていないんだろう。
そしてまたぼくも、その一人だ。
そんなぼくが今日感じた「ゆるす」ということの実体を話してみたいと思う。
「ゆるす」とは何なのかというと、それは「やめる」ことなんだと思う。
「ゆるすことが大切です」
なんてことを言われてしまうと、
「ゆるせない自分」をゆるせなくなったり、「ゆるそう」とリキんでみたり、「ゆるさなきゃ」と焦ったりする。
しかし、それは「ゆるし」の本懐ではなくて、いやまぁそれも「ゆるし」の一部なんだろうけど全部ではない。
「ゆるし」は、なるべく奥の奥から手を付けたほうがいい。
表面的な「ゆるし」をすると「人を殺してもいい」「殴ってもいい」というような極論に走ってしまいがちだ。
もちろん、そんな極論も「ゆるし」ながら、もっと本質に迫っていく。
すると「ゆるし」とは「やめる」ことなんだということが見えてくる。
もっと言えば「責めるのをやめる」ということ。
エゴの通常状態というのは、何かを責めている。
これはダメだ、あれはダメだ。
こうしたほうがいい。
これはよくない。こうしなきゃ。
エゴの本体というのは「責め」だ。
だからといって、この「責め」をやめようというのではない。
「責め」を「観てあげる」のが、「やめる」であり「ゆるし」なんだと思う。
これは「なにもしない」と言える。
「起こることを観る」ということ。
いま、じぶんを責めてしまってツライひともいるでしょう。
「こんなんじゃダメだ」と、じぶんに厳しくしている人もいるでしょう。
それはそれでよいのです。
でも同時に、そうじゃなくてもよいのです。
どちらでもよいのです。
ぼくは何か大きな勘違いをしていたようで、「変える」必要はないのです。
「このままでいいんだ」と思えたときに、「変わる」のです。
「勝手に起こる」のです。
だから「変わらなくていい」のです。
試しに「もう変えなくていい。変わらなくていい」ということを、つぶやいてみてください。
こころとからだの芯が、ゆるんで呼吸が深くなるのが分かると思います。
これが「変わる」ということです。
分からない方もいるかもしれませんが、それでよいのです。
無理をしなければ、「自然の理」に従うのです。
それは「何かをする」ことではなくて「何かをやめる」ということなのです。