札幌セミナーの前日に飲み会があり、2次会でカラオケにいった。

 

今回は北海道ということで、事前にハラ生き仲間に

 

「松山千春を歌わなきゃなー」という話をしていた。

 

そう松山千春はのモノマネは、ぼくのなかで「十八番」なのである。

 

けれども、それを披露するにはなにかと勇気がいって、じぶんの結婚式で妻に贈った以外は、カラオケなどでもほとんど歌ったことはない。

 

そんな心をよく観察してみると、

 

「そもそも似てないと言われるのが怖い」

 

「本気でやってると思われるのが恥ずかしい」

 

「笑いを取りにいってるのが恥ずかしい」

 

などの思いがある。

 

ぼくは目立ちたがりなのだ。

 

注目を浴びるのが大好き。

 

しかし同時にどこかで怖い。

 

目立つ分だけ失敗も目立つ。

 

その恐怖はある。

 

 

だから当日も、曲をリクエストする寸前まで「やめよう」なんて思っていた。

 

別になんの約束をしたわけでもない。

 

「歌おうかなー」とメッセンジャーでやりとりしたくらいで「歌う」と宣言したわけじゃない。

 

やめてしまっても、なんの支障もない。

 

そうすれば心も穏やかなままでいられるだろう。

 

自分のなかで弱気な気持ちが起こったが、やはり「それでハラを語れるのかよ」という声が奥のほうから聞こえてくる。

 

「すべってもいいからやるんだ」と。

 

けっきょく、「君を忘れない」をリクエストした。

 

曲の順番が回ってくる。

 

「本気じゃないよ」というアピールのために座って歌おうかと思った。

 

けれども、それでは男がすたる。

 

気がついたら立ち上がっていたのは、目立ちたがりの性分なんだろう。

 

 

歌い始めたら、やはりすごく緊張した。

 

足に力が入らず、西野カナくらい震える。

 

心なしか声も震えている。

 

 

一生懸命にハラ生きメソッドで気持ちを下げるのだが、どうにもベストパフォーマンスではない感じ。

 

あがっている。

 

我ながら、自らのビビり具合に情けなくなる。

 

なんだかんだ言って「不動心」からは程遠く、たった一曲モノマネを披露するだけでこのざまかと自分を責める気持ちが湧いてきた。

 

しかし同時に、「だからいいんじゃないか?」という思いもあった。

 

別にみんな「カッコよく決めるおぜっきー」を求めているわけじゃない。

 

「完璧にできるおぜっきー」を求めているわけじゃない。

 

それよりも、泥まみれでビビリな姿も見せながら震える足で立っているおぜっきーを素敵に思ってくれているのではあるまいか、そう思いなおした。

 

あたかも、ぼくが保育園児の一生懸命さに心打たれるように、オトナとて「できなくとも上手でなくとも、一生懸命にやる」ということが、誰かの心を動かすはずだ。

 

なんとか一曲歌い終わったときには、とてもホッとしたが、少しのあいだ震えていた。

 

まだ感想は聞いていないから、実際にみんなの目にどう映ったかは知らない。

 

そして、これからも知らなくていいと思っている。

 

大切なのは自分で「よくやった」と思えるかどうかだ。

 

それも結果ではなくて「チャレンジしたかどうか」ということなんだ。

 

 

ぼくらは毎日、小さなチャレンジの機会に接しながら暮らしている。

 

ホテルの朝食バイキングを食べたときも、すごく美味しかったが、美味しかったことを、どのタイミングでホテルの人に伝えようか迷った。

 

別に伝えなくとも。心のなかで、あるいは気心の知れた人に「美味しかった」と伝えれば済むことだ。

 

けれども、ハラのなかでは「ホテルの人に伝えたい」という思いがすでに沸き上がってしまっている。

 

それを抑えるのはハラ生きじゃない。

 

小さなチャレンジをひとつやめるごとに、人はすこしずつ自信を失っていく。

 

 

逆に、毎日の一瞬一瞬の小さな小さなチャレンジから逃げなければ、人はどんどん変わっていく。

 

けして大層なバンジージャンプじゃなくていい。

 

そう、時に「バンジージャンプ」は誰かへのアピールになってしまう。

 

「こんなチャレンジしました!」と誇らしげな顔をするための道具になりさがってしまう。

 

それよりは、「小さな小さなチャレンジ」を積み重ねていくことのほうが、本質的な変化につながるのだ。

 

けっきょく、意を決して「おいしかったです」と伝えると、とても嬉しそうな顔で「ありがとうございます」と返された。

すごくホッとした。

 

 

 

 

武術の達人いわく

「特訓なんて何にもならない。毎日毎日、鍛え続けるのだ」

 

 

「じぶんをゆるす」と言っても、「チャレンジしない自分」までゆるしてはいけない。

 

「失敗した自分」は許してもいいけれども、「チャレンジしない自分」は断固として拒否するんだ。

 

「小さな小さなチャレンジ」から逃げてしまったら、「ちゃんと後悔」しなきゃいけない。

 

 

「すべてOK」なんて言葉を都合よく解釈してしまったら、なんにも面白くない人生ができあがる。

 

「すべてOK」とは「ちゃんとNG」を出すことでもある。

 

「じぶんのありたい像」をきちんと見定めて、「これはOK、これはNG」とジャッジしていく。

 

それは「理想とかけ離れた自分」を責めて落ち込むことじゃない。

 

もっともっと自分に優しく、もっともっと「自分」を大切にしてあげることだ。

 

 

「どうありたいの?」

 

この問いを一瞬一瞬、じぶんに突き付けていく。

 

「チャレンジから逃げる自分でありたいの?」

 

「嘘をついていく人生でありたいの?」

 

「我慢と後悔のキャラのままでいくの?」

 

もしNOと答えるなら、チャレンジしていくしかない。

 

そして、ふつふつと沸き上がってくる「やってみたい」という「小さな小さな自分の声」を丁寧に掬いとっていく。

 

それが、「じぶんをゆるす」ってことなんだと思う。

 

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