いったい「美しいスタイル」とは、なんだろうか?
西洋的なモノの見方をすると「美しさの基準」というのは、その「輪郭のバランスの比率」になる。
あくまで「見えるもの」を対象とし、それが「黄金比」などに代表される「美しい割合」になっていることを美とする、そんな基準があるように思える。
そういった基準から生まれた文化が「ギリシャ彫刻」であり「洋服」であると。
これらの話をこの本で読んだ。
それに比べて、日本はご存知「キモノ文化」。
身体を覆うキモノによって、「からだの外側の輪郭」というのは見えない。分からない。
「見えない・分からない」ということは、その文化では「それを重視していない」ということなのです。
では「身体の輪郭」を覆い隠したときに、その「差」となるのはどこか。
それこそが「軸」であり「姿勢」なのです。
日本の文化というのは、そういうところを観るわけですね。
目で見るわけではなく、目で感じる。身体で観る。
で、もちろん「おっぱいの大きさ」というのを気にする文化ではなかったわけです。
そもそも「巨乳」に価値がついたのは、どうも1980年代らしい。
戦後から徐々に外国人女優が入ってきて70年代に「ボイン」という言葉が発明され、80年代に「巨乳」という言葉ができ、90年代以降に、
「巨乳=魅力的」
という価値観になってきたらしい。
江戸時代のエロ本「春画」には性器の描写はあっても「乳」の描写はない。
当時は「乳」といえば赤ちゃんのための器官であって、男性のためのそれではなかったということだ。
オトコは、女性の「軸」や「姿勢」、そして子宮に関係のある「足首」などを観て女性を判断していたのだ。
これも「観の目」の一種なんじゃないかと思う。
そしてやはり戦後に西洋的な価値観に染まっている。
それが悪いというわけじゃない。
しかし「おっぱいの大きさを江戸時代の人は気にしていなかった」という価値観を知っておくことは大事だと思う。
おっぱいというのは脂肪でできているから、どうやって努力しても徐々に垂れてくる。
いろいろな体操などで、その「垂れ具合」に歯止めをかけることはできるかもしれないが、根本的に垂れてくるのを止めることはできないだろう。
それに対して「姿勢」というのは、年々、進化させていくことができる。
筋力・体力が落ちてきても、衰えにくい筋肉を活かし、からだ全体の連動・調和を意識していれば、姿勢はどんどん進化していく。
たとえ猫背になってきているように見えても、その内を流れるエネルギーを高めることができる。
そこには「生きる姿勢」という言葉もある通り、「生き方」が大きく関わってくる。
じぶんらしく、誇りをもって生きていれば姿勢も保たれるだろうし、卑屈になれば、字の通り姿勢も「卑しく屈して」くる。
「からだの外側の輪郭」というのはボディスーツやコルセットでごまかせる。
けれども、「姿勢」や「軸」というのは人格や性格などの精神面と密接な関係があるので、ごまかすことができない。
さて、あなたはどっちを重視したいか、という話なのです。
ちなみに中世ではコルセットにより女性に深刻な病気(リウマチなど)が発生し、コルセットが法によって禁止されたが、違法と知りながらコルセットを外せない女性が多かったらしい。
これなど、エゴの肥大した人が「見た目」に囚われてしまういい例です。
その意味では、ぼくはやはり、これからは「軸」「姿勢」で「美しさ」を判断していったほうがいいと思う。
そうすることで「無理なダイエット」「無理なアンチエイジング」「見た目に惑わされる巨乳・貧乳ヒエラルキー」などが減ってくるはずだ。
「若さ」だけを美しさの基準とせず、年を重ねていく中での美しさを評価する。
そしたら「若さ」だけに執着して苦しくなることもないだろうし、みんながエイジングを愉しむことができる。
ぼくは、そういう社会のほうが健全だと思うのです。
「和の礼儀作法」というのは、そういう価値観を持っています。
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